興味のあるお題だったので投稿してみます。
前置きですが・・
わたしは私立外国語学部を卒業後は大手国内リゾート運営会社に4年、その後、地域活性化に力を入れる離島の旅行会社に転職し、旅行業に従事するサラリーウーマンです。
業務上、英語は必須で、外国のお客様の旅行手配・案内業務を実際に話したり、
メールや電話でのやり取りにて行っています。
今や英語が使えない人生なんて考えられない生活をしており、英語は自分の生活の基盤を作ったとも言えますが、そのきっかけについて書いてみたいと思います。
・幼少期の英語学習
私と英語の出会いはまだ3歳くらいの時でした。
父親が英才教育にと用意した「人魚姫」や「3匹のこぶた」などの
イソップ童話の日英ビデオシリーズを毎日流すのですが、理解できないのが嫌で
日本語バージョンだけ見て、英語はすぐに消してしまいました。
当時は全く意味がわからない言葉を聞かせられて嫌がったのだと思います。
それから英語に苦手意識があり、小学生の頃も仲の良い友達が英会話教室に通っていても、「絶対に行きたくない」と完全拒否し、お外で元気に遊んでいました。
私の父親は当時外資系企業に勤めており、研修などで海外出張に行くこともありました。
きっと自身が英語が話せなかったため私に英語教育を期待をしたのでしょうが、
自らが興味が持てなかったものを無理やりさせられたために
両親が試みた英才教育は失敗に終わりました。
・ホームステイ体験への参加
グローバル化が進む中で、私の故郷の町では中学生に国際的視野を広げてもらおうと、
毎年中学生の海外国際交流を行っています。
生徒たちは、オーストラリアに派遣され、
2週間1人1家庭に配属されて、実際にホームステイをしながら
ステイ先の生徒と共に学校へ通い、授業を受け異国の文化や言葉を肌で感じ体験します。
13歳、中学2年生の私はこの研修への参加を決めます。
きっかけは「英語が話せるようになりたい!」ではなく、
幼い頃からお外でよく遊んでくれたお隣のお姉ちゃん(絶対的憧れの存在)が 、
この研修に参加したことがきっかけでした。
私がオーストラリアに派遣された年は幸いアテネオリンピックの真っ最中でしたので、
英語がわからなくてもボディランゲージで
オリンピック中継を見たり、体を動かしたりして楽しく過ごしました。
・英語の勉強意欲を持つのは失敗経験だった
2週間の研修中はステイ先の子とともに毎日ハイスクールへ通い、彼女と同じ授業に参加します。
そこで彼女が受講している日本語クラスに参加しました。
オーストラリア人の先生がオーストラリア人の生徒に日本語を教えているのですが
笑ってしまうくらい上手ではなく、「HIDARI」と言いながら、黒板には「右」と書くのです。
私は黙っていることができず、勇気を出して先生の間違いを指摘し
「さすがだね!すごい!」と褒められ、拍手喝采、クラスの人気者に。
そこで先生は私に「日本を紹介してほしい」とリクエストするのですが、
英語が全くわからないので話ができない、
そして聞いてくる学生の質問の答えが全くわからないことにすごく悔しさを感じました。
例えば、「原爆はなぜ広島に落ちたの?」とか「浴衣と着物は何が違うの」とか
中学生の私には難しい質問がたくさん投げかけられました。
わたしは答えられずにだんまりしてしまうのでした。
私はその時はじめて、「外国の人に自分の国のことを伝えられた時の楽しさと、伝えられなかった時の悔しさ」を経験したのです。
英語が話せて、理解できたとしても「自分の国のことを聞かれてるのにわからない」その恥ずかしくて悔しかった気持ちが勉強意欲に繋がりました。
「勉強してこの人たちが知りたいことを教えてあげたい。」
という気持ちが芽生えました。
帰国してから、私は社会科(特に歴史)と英語をものすごく勉強しました。
学校で1番になれるくらい勉強して、
とても大っ嫌いだった英語を克服することができました。
そして高校と大学は英語教育に力を入れている学校へ進学し、
無事「日本の魅力をたくさんの外国人に伝えることができる仕事」へ着くことができました。
まとめ
私が苦手だった英語への勉強意欲を克服できたのは、
日本での座学ではなく、海外留学での失敗経験だったのです。
この実体験を通して、自ら勉強意欲を生み出し、
同じ志を持つ良きライバルたちがいる環境にいることで、その意欲を継続させたのです。
私は一児の母ですが、子供には自分で経験し興味を持つチャンスをたくさん
作ってあげたいと思います。
私の場合は英語が生きがいと繋がったのですが、自分の子供はどんなものに興味を持ってくれるかとても楽しみです。
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